「許す」ということについて 先人に学ぶ
教皇ヨハネ・パウロⅡ世が「人を許す時許した人は自由になり、解放されます。人を許すとき、その人は未来を創造的に切り開いてゆくことができます。」と言っていますが、他人を許さないとき、その人は不自由になります。
その理由を教皇は続けて次のように言っています。
「人を許さない人は他人の支配下にある人なのです」これは面白い言葉です。
「許さない」と言う人が上位に立っているかと思うと実はそうではなくて、そのこだわりに縛られ、許していない相手の支配下にあるということ。自分が自分の主人でないということなのです。
自分の生活を大切にするためには、自らの感情を自分でスッパリ「断ち切る」事が時には必要です。
「もうこれ以上このことで悩むまい」と。
しかし人間のこと断ち切ったつもりでも、なかなか忘れられず許せないこともあります。そんな時、「時間」が一番いい薬なのかもしれません。
人を許した時、許した人は自由になる。
理不尽な相手は、無視するのではなく、距離を置いてみよう。
許すための工夫も必要です。
例えば許せない行為に出会った時、もし自分が相手の立場に置かれていたら、もっとひどいことをしたかもしれないと想像すると、何となくいきり立っていた自分がおかしくなって、相手を容認しやすくなります。
またキリストでさえ、ひどい仕打ちを受けたのだから、私のようなものが受けるのは当たり前だと考えることもできねし、苦労して、初めて人間は成長するのだ、有難い、と考えることもできましょう。
いずれにしても「疲れてはならない」のです。
しかし疲れます。特に、自分がこんなに、苦労して、私と人の間を美しく見ようとしているのに、その相手が少しも努力をしてないようなとき。
そんな時、私は「疲れてはダメ」と自分に向かって呟くのです。
(幸せはあなたの心が決める 渡辺和子著より)
※人は祈ることによって、癒しを得て、赦すことを覚えていくことができ、そして、人生を理解することができるのです。
人生には様々なことが起こり、心が折れそうになる時もありますが祈ることで気持ちがすっきりし、また、人の為に祈ることで私たちは自らを救うことになるのではないかと思います。
私らしい人生のしまい方 大前伶子著より一部抜粋
「許す」ということは私には理解できません。なぜなら何でもかんでも許してしまっては社会の秩序は保たれません。
犯罪が行われても許すのでしょうか。許されないから法律で罰するのです。
原爆禁止運動はどうでしょうか。相手を許さないから「原爆反対」と訴えているのではないでしょうか。
「あっしにはかかわりないことでござんす」(木枯し紋次郎)ということで
自分に関係のないこと、火の粉が降りかからなければ許してもいいです。
「赦しは、憎しみの悪循環を断つ力である」。とも言いますがしかし降りかかる火の粉は払わなければなりません。
許せないことに遭遇すれば倍返しをするという生活信条を持っている方もいると思います。
「目には目を歯には歯を」という考えは当たらずとも遠からずです。
それを罪を犯しても「許す」という考え方には納得いきません。
百歩譲っても「水に流す」ぐらいですかね。
どうしたら「許す」という心境になるのか私にとってはいまだに謎の発想です。
そんな時、斎藤一人さんの本を読む機会がありました。
そこで「許せない自分を許す」という言葉に目からうろこです。
斎藤一人さんは「許せない人を許しなさい。それができないならば許せない自分を許しなさい」。
「そのままの自分を許します」と声に出していってみてください。心が緩んで人のことも許せるようになります。
と説いています。
「すごい引き寄せの法則」その他著書多数。
☆彡お勧めビデオ
「自分はこういうだらしのない人間、許せないのよ」そういう自分を許してあげるということなんです。
自分が許せないだけじゃなく、あの人も許せない、この人も許せない、自分の親も許せない。
「人は完全ではない」
許せない状態だと交感神経が発達し、体が硬直する。
肩が身体がバリバリな人は、自分か他人を許せない。
許すといういう意味は、ゆるめるという意味。
ゆるめると、副交感神経が発達して、免疫力が強くなって身体の悪い病原菌やっつけたり、健康なったりする。
なかなか病気が治らない人ってね、何かが許せない。
まず自分を許す訓練すること。
「自分も許せないし人も許せないんです」つったら、そういう自分を許すの。
「許そうと思っても、まだ許せないんです」ったら、そういう自分を許すの。
で、どこまで行っても自分を許すしかないの。
そうすると、人も許せるようになる。ただこれだけの事で、許せば、緩むの。
斎藤一人 自分を許すと世界が変わる #128より 一部抜粋