人&言葉の時の花園

名言、諺、時事新語、流行語、詩・俳句・短歌や人物&言葉の使い方などをお知らせしています。

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「雪国のひなのまつりに届きたる桃の花束凍りていたり」鳥海昭子 3月3日の桃の節句・ひな祭りに寄せて

3月3日は桃の節句・ひな祭り

 

誕生花はモモ 花言葉は気立ての良さ

 

☆彡雪国のひなのまつりに届きたる桃の花束凍りていたり

 

雪国ではひな祭りの時期でも零下になることがあります。

 

届いたピンクの花びらが凍ってほろほろこぼれるのでした。

 

贈っていただいた方に申し訳なく思いました。

 

鳥海昭子

 

ラジオ深夜便誕生日の花と短歌365日 (ステラMOOK)

ラジオ深夜便誕生日の花と短歌365日 (ステラMOOK)

 

 

誕生日の花と短歌365日より一部抜粋

 

 

☆彡桃の節句(上巳の節句
3月3日。女の子の健やかな成長を願う節句

元々は「上巳(じょうし・じょうみ)の節供」といわれていました。
 
起源は古来中国の上巳節。上巳とは、3月最初の巳の日という意味です。
中国では、上巳(じょうし・じょうみ)の日に、川で身を清め、不浄を祓った後に宴を催す習慣がありました。
これが平安時代日本に伝わり、宮中の「人形遊び」と結びつき「流し雛」へと発展したといわれています。


雛祭り(ひなまつり)は、日本において、女子のすこやかな成長を祈る節句の年中行事。
ひな人形(「男雛」と「女雛」を中心とする人形)に桜や橘、桃の花など木々の飾り、雛あられや菱餅などを供え、白酒やちらし寿司などの飲食を楽しむ節句祭りである。

 


雛祭り (京雛・八段、久月) -Japanese Dolls' (Girls') Festival-

種類
内裏雛(だいりびな)
名称は親王(男雛 - だいり雛、女雛 - 雛人形)。親王親王妃を表すとされることが多い。繧繝縁(うんげんべり)の厚畳の親王台が敷かれる。お内裏様、お雛様、いずれも男雛と女雛の2人で一対を指すものであり、男雛のみを「お内裏様」、女雛のみを「お雛様」と呼ぶのは誤りである。
この誤用はサトウハチローが作詞した童謡「うれしいひなまつり」の歌詞から広まった。サトウハチロー自身はこの誤りを恥じ、後々まで気にしていたという。

三人官女(さんにんかんじょ)
宮中に仕える女官をあらわし、通常3体1組の人形を二段目に配置する。手に持つ道具は、中央が島台または三方、向かって右に長柄(ながえ)、左には提子(ひさげ)、高坏がある例では各女官の間に飾る[8]。

●五人囃子(ごにんばやし)
能のお囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、三段目に配置する。向かって右から、謡(うたい)、笛(ふえ)、小鼓(こつづみ)、大鼓(おおつづみ)、そして太鼓(たいこ)の順であり、右から楽器が小さい順番に並んでいる。能囃子の代わりに「五人雅楽」の楽人の場合もあり、向かって右から、羯鼓(かっこ)、楽太鼓、笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、横笛の順に並べる[9]。中性的な容姿だが、れっきとした男性である。

随身(ずいじん、ずいしん)
四段目に配置する。通称:右大臣と左大臣。向かって右が左大臣で年配者、向かって左が右大臣で若者である。いずれも武官の姿であり、正しくは近衛中将または少将である。随身・矢大臣も参照。

●仕丁(しちょう)
従者と護衛(あるいは衛士)をあらわし、通常3人1組の人形を五段目に配置する。それぞれ、日傘をかざしてお供する係、殿の履物をお預かりする係、雨をよける丸い笠(かさ)を竿(さお)の先にのせてお供する係を分担している。向かって右から立傘(たてがさ)、沓台(くつだい)、台笠(だいがさ)の順に飾る。場合によっては、箒、塵取、熊手を手にすることもあり、宮中の清掃の役目をする。この時は向かって右から竹箒、塵取、熊手の順に飾る。怒り、泣き、笑いの表情から、三人上戸(じょうご)の別称もある。月代を剃っていることが多い。

 


お雛様の七段飾りの飾り方。画像付きで簡単に解説します。

メーカーによる追加
七人雅楽上記の五人雅楽に絃楽器の2人(和琴、箏、琵琶のなかから2つ)が加わる)
歌人柿本人麻呂小野小町菅原道真
能の鶴亀、
稚児(2人が多い、男雛女雛に近侍)
三賢女(紫式部清少納言小野小町

配置
三人官女以下のその他大勢の随臣、従者人形を「供揃い」という。現代日本では男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多く、結婚式の新郎新婦もそれに倣っているが、人形の配置の仕方は下記のとおり近代前後で変化があり、それが現在も地域差として残っている。

壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を模している。かつての日本では「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立った。西日本の一部ではこの配置を続けている家庭もある。

しかし明治の文明開化によって日本も西洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋に倣って右に立った。それが皇室の伝統となり、昭和天皇はいつも右に立ち香淳皇后が左に並んだ。それにならい、男雛を右(向かって左)に配置することが一般的となった。

飾り方
飾り方にも全国各地で色々あるが、多くはこの3種の飾り方である。しかし、特に飾り方に決まりごとはない。
御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む)
御殿の内の一室を拝しての飾り方
屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方
さらにはお囃子に使う楽器や、雪洞(ぼんぼり)、牛車などの家財道具を一緒に飾ることもある。上段の写真にあるような五段、七段(七段飾りは高度経済成長期以降、八段飾りはバブル期以降)の檀飾りが多かったが、最近では部屋の大きさに合わせたり雛人形を出し入れしやすいように段数を減らしたものが主流となっている。戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていた。
祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという話は昭和初期に作られた俗説ともされ、旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされる。また、地域によっては「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける」など躾の意味からもいわれている。
この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛や蛤の料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒、生菓子の引千切がある。

雛人形の生産地・販売地
関東地方に集中しており、生産地としては埼玉県のさいたま市岩槻区が有名。また栃木県の佐野市や埼玉県鴻巣市も小規模ながら生産店が存在する。販売に関しては全国の商業施設で販売されているが、集中して軒を連ねるのは、人形の問屋街である東京都台東区浅草橋駅周辺(浅草橋・柳橋など)が有名で、「人形の久月」「秀月」「吉徳大光(「顔が命の〜」のCMキャッチコピー)」らの専門店がある。これらの店舗は毎年正月から2月ぐらいにかけテレビCMを流す。ちなみに雛人形と共に手掛ける五月人形も3月3日以降にCMが流れる。

●雛祭りが祝日でない理由
江戸時代、雛祭りは「五節句」のひとつとして「祝日として存在した」とされる。しかし、1873年新暦採用が「五節句(=雛祭り)」の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。祝日制定にあたり3月3日の案や、新年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされる。

●特色ある雛祭り
各地で、大量に雛人形飾りを公開したり、特色ある飾りを飾ったり、少年少女、又は成人の男女が雛人形に扮したりする祭り等が、この期間中に開催される。

●雛祭りを歌った楽曲
うれしいひなまつり(童謡、作詞:山野三郎(サトウハチロー)、作曲:河村直則(河村光陽)、1936年 ポリドール)
ひなまつり(童謡、作詞:海野厚、作曲:三宅延齢)
おひなまつり(童謡、作詞:斎藤信夫、作曲:海沼実)
ひなまつり(童謡、作詞:斉木秀男、作曲:三宅延齢)
ひなまつりの歌(童謡、作詞:与田準一、作曲:河村光陽)
おひなさま(絵本唱歌、作者不明)
血塗られたひな祭り(人間椅子
ミニモニ。ひなまつり!/ミニ。ストロベリ〜パイ(ミニモニ。
雛祭(文部省唱歌、作者不明)
ひなまつり(文部省唱歌、作詞:林柳波、作曲:平井康三郎)
雛祭り(童謡、作詞:林柳波、作曲:本居長世
ひなまつり(童謡、作詞:水谷まさる、作曲:小松清)
雛祭の宵(ひなのよい、童謡、作詞者不詳、作曲:長谷川良夫)
雛の宵(長唄、作詞:松正子(松本白鸚夫人)、作曲:今藤政太郎)
雛の宵(清元)

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"春風や 闘志抱きて 丘に立つ" は「しゅんぷう」が大正解! 高浜虚子の誕生日に寄せて

2月22日は俳人高浜虚子の誕生日である。

 

"春風や 闘志抱きて 丘に立つ" 高浜虚子

 

声を出して読もうとしたが果たして「春風や」をどう読もうか迷いました。

 

「はるかぜや」又は「しゅんぷうや」どちらなんだろう?

 

下の句を見てみる。

 

ヒントは「闘志」にあるのではなかろうか。

 

青年・高浜虚子が海を臨む砂丘の丘に立ち、心機一転し、何やら、決意表明をしている様に感じられる。

 

はるかぜのイメージはそよ風でほんわか心地よい風、女性的である。

 

一方「しゅんぷう」はまだ肌寒く、冷たく、厳しい風を連想させ、男性的である。

 

答えは「しゅんぷう」ではなかろうか。

 

私訳

「俺はこれから戦いに挑むんだ、吹きすさぶしゅんぷうよ、負けないぞ!見ていてくれ」

 

向かってくる、しゅんぷうは対抗勢力または壁を象徴しているのではなかろうか。

 

ここで「はるかぜ」ではほんわかムードで、闘志がわいてこない。

 

前方に困難があればあるほど闘志はめらめらと燃えてくるものだ。

 

イケイケ、GO! GO!となるのである。

 

春風は通常ならば「はるかぜ」と読むのがが妥当なのだろうが、この句の場合には「しゅんぷう」がよりふさわしいと思う。

 

なんだか元気が出てきますね。

 

今、NHKで放映中の「西郷どん」の冒頭の山上のシーンを彷彿とさせます。

 

また、クラーク博士の名言、Boys be ambitious ! 青年よ大志を抱け!に通じるものがあります。

 

“Boys be ambitious ! Be ambitious not for money or selfish aggrandizement ,
not for that evanescent thing which men call fame . Be anbitious for the attainment of all that a man ought to be .”


少年よ、大志を抱け。
しかし、金を求める大志であってはならない。
利己心を求める大志であってはならない。
名声という、つかの間のものを求める大志であってはならない。
人間としてあるべき すべてのものを 求める大志を抱きたまえ。

 

しびれますネ。

 

高浜虚子 たかはま きょし

高浜虚子は明治・大正・昭和の三代にわたる俳人・小説家。

 

1874年 明治7年 2月22日  松山[生] 1959年 昭和34年 4月8日 鎌倉[没]
俳人,小説家。本名,清。伊予中学校時代に正岡子規の門に入り,第二高等学校在学中,俳句革新運動の開始を知り,河東 (かわひがし) 碧梧桐とともに中退して上京,子規を中心とする『日本』派俳句の双璧となった。

 

子規没後『ホトトギス』を主宰,写生説を受継いで伝統墨守の立場をとり,『日本』に拠って新傾向の俳句を推進した碧梧桐派と勢力を二分した。

 

一時は写生文小説に熱中したが,大正初頭に俳壇に復帰,「客観写生」「花鳥諷詠」論を主張した。『稿本虚子句集』 (1908) から『七百五十句』 (64) まで,多くの句集がある。小説は『俳諧師』 (08) ,『続俳諧師』 (09) ,『柿二つ』 (15) など。 1937年芸術院会員。 54年文化勲章受章。

 

1913年(大正2年)、碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰。このとき碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明とも言える句「春風や闘志抱きて丘に立つ」を詠んでいる。

 

代表作
・遠山に日の当たりたる枯野かな
・春風や闘志抱きて丘に立つ
・去年今年貫く棒の如きもの
・波音の由井ガ濱より初電車
・吾も亦紅なりとひそやかに

 

 

 

 

春になるということは 「さあもう一回やってみる時だよ」というお知らせ

あなたには、嫉妬心があります。

 

あなたには、競争心もあります。

 

あなたには、好奇心もあります。

 

だとしたら、

 

あなたには、大いなる可能性があります。

 

そのどれもが、生きるために必要なエネルギーを生むからです。

 

よりよく生きるためにあなたの中にいろいろな心を受け入れてあげましょう。

 

すぐすればすぐ済ます。

 

「誉め言葉」ノートを作りましょう。

 

あの時の私は勇気があった!

 

そんな風に我慢できた私は偉い!

 

今日のコーディネートは最高!

 

こんな「誉め言葉」ノートを見ていると、

 

気持ちにも心にも、大きな自信が付くのです。

 

春になるということは

「さあもう一回やってみる時だよ」というお知らせなのです。

 

人生における唯一の秘策は

 

目の前にあることに集中するだけ。

 

待ち時間とは「待たされる時間」ではなく、

 

「使いながら待つ時間」

 

☆彡心と体のバランスが良くなる秘訣

 

心が緊張すると、おなかが痛くなる、心臓がドキドキする。

これは一つの心と体の共同作業なのではないでしょうか。

 

「緊張しているのは君だけじゃないよ」と体が心に話しかけると

「そうだね、じゃあもうちょっと頑張ってみるよ」と心が答える。

 

 緊張や不安を克服した時は、

心も体も素晴らしい開放感を味わうことができるのです。

 

心と体が両方助け合っているからこそ、人生の様々なシーンをクリアできると私は思っています。

 

 

 

 以上は 中山庸子著 朝一番やる気がふくらむ言葉より

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素敵なものは毎日使い、素敵なことを毎日作ろう。幸運を引き寄せる法則

幸運を引き寄せる法則。

 

 

今日という日のドラマは

あなた自身が書いたオリジナル・シナリオで進行していきます。

 

一度に何もかも変えようと力まなくてもいいのです。

 

チャンとよくなっているのだから。

 

幸せな人生には2種類のメガネが必要です。

 

一つは人生の目標を眺めるための遠眼鏡、

 

もう一つは日々の小さな喜びを見落とさないための虫眼鏡。

 

良いものはしまい込まず、毎日使ってどんどんツキを呼び込むのです。

 

☆彡素敵なものは毎日使い、素敵なことを毎日作ろう。

素敵なものを毎日使っていると、自然にステキなこととも、ご縁ができます。

 おなじスクランブルエッグでも、大きなお皿に盛りつけることにすれば、ちょっとイタリアンパセリを散らそうかしらとか、ランチョンマットも出してということになります。

 一日の始まりが、一枚のお皿によってグッと幸せの方に近寄っていく気がしませんか?

 

 

 

 

中山庸子著 朝一番やるきがふくらむ言葉より 一部抜粋

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幸運はその日の朝 それを望んだ人の所へ 「ものは試し」とやってくる。

幸運を引き寄せる法則。

Step1

 

幸運はその日の朝

 

それを望んだ人の所へ

 

「ものは試し」とやってくる。

 

自分のシャツと意欲に

 

毎日アイロンをかけましょう。

 

誰だって今日一日ぐらいなら頑張れるでしょう。

 

明日以降のことはその日が今日になったら考えればいいのです。

 

トラブルが起きたときは「試されている時」

 

すべてのトラブルには意味があり、

 

それに気づいた時が「成長の時」

 

 

中山庸子著 「朝一番、やる気がふくらむ言葉」より

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人生を変えたいのなら、習慣を変えること。「習慣を制するものが人生を制する」はづき虹映さんに学ぶ

あなたの人生は「習慣」によって作られている。

 

あなたの習慣があなたの人生を支配しています。

 

人生を変えたいのなら、習慣を変えること。

あなたの習慣を変えられるのは「あなただけです」。

 

 心理学的にみると「習慣」とは、「無意識の行動パターン」であり、

 

「長い間繰り返し行ううちに、そうするのが決まりのようになった行動」のこと。

 

つまり、習慣は「必ずそうしなければならない」という「決まり」ではなく、

 

あくまでも自分が無意識に選んでいる行動なので、

 

「意識」すればいくらでも変えられます。

 

習慣を制するものが人生を制する」という言葉は真理です。

 

 成功者のような「習慣」を身につけてしまえば、成功するのは当たり前です。

 

成功者の行動パターンを真似して、成功するのが決まっているかのように行動していれば成功しないでいるほうが難しいといえます。

 

 

 

 

ザ・ミラクル3分で人生が変わる魔法の法則81 DVD付

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 ザミラクル 3分で人生が変わる魔法の法則81 はづき虹映著 より

青春とはなんだ!  サミュエル・ウルマンの「青春の詩」に学ぶ

 

今日は幻の詩人とも言われている「サミュエル・ウルマン」が書いた「青春の詩」のご紹介です。

 

「青春の詩」"Youth" は、サミュエル・ウルマン が70代で書いた詩で、詩集 From the Summit of Years, Four Score に収められた作品のひとつです。

 

サミュエル・ウルマンは1840年4月13日、ドイツのヘヒンゲンでユダヤ人両親の長男として誕生。1924年3月21日84歳でこの世を去りました。

 

サミュエル・ウルマンは晩年に数編の詩をつくっています。

 

この「青春の詩」は1922年に家族が発行した詩集「80年の歳月の頂から」の巻頭の詩です。


「青春の詩」の流布にはダグラス・マッカーサーが関わっている。マッカーサーは、1940年ころにジョン・W・ルイスからこの詩を贈られたという。

 

この詩を気に入ったマッカーサーは、マニラで、のちには東京でも、執務室の壁に詩のコピーを額に入れて掛け、また講演でもたびたび引用した。『リーダーズ・ダイジェスト米国版』1945年12月号は、"How to stay young" という記事において、マッカーサーの執務室にかけられているというこの詩を紹介しました。

 

二次大戦終戦後、1945年9月27日に昭和天皇が,日比谷の占領軍総司令部にマッカーサー元帥を訪問した。天皇マッカーサー元帥と並んでツーショット写真を取られた部屋の壁に掛けられていた詩が、この青春の詩(英文)でした。

 

この詩を、ある日、岡田義夫氏説が発見し、感動し、漢詩調に翻訳しました。

 

これが後に松下幸之助氏の目に止まり、あるインタービューでこの「青春の詩」を紹介し、雑誌に掲載され一躍有名になりました。

 

又、ロバート・ケネディーがエドワード・ケネディーへの弔辞にこのウルマンの詩の一節を引用したのも有名な話です。


"Youth is not a time of life; it is a state of mind"(青春とは人生のある期間を指すのでなく、心の持ち方を指すものである)とするこの詩は、若い人たちには戒めとして、シニアの方には「人生の応援歌」として必ずや役立つものと思います。

 

人生において、心が折れそうになった時、生きていくのが辛くなった時、「青春の詩」"Youth" は必ず人生のビタミン剤として最適なものとなるでしよう。

 


サミュエル・ウルマン著  Samuel  Ullman の詩「 Youth 青春」について

青春  岡田 義夫 訳 

 

青春の詩

青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いが来る。

 

歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や狐疑や、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。

 

年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く、驚異への愛慕心、空にきらめく星辰、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽仰、事に処する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる、人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる、希望ある限り若く 、失望と共に老い朽ちる。

 

大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り、人の若さは失われない。これらの霊感が絶え、悲嘆の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを堅くとざすに至れば、この時にこそ人は全く に老いて、神の憐れみを乞うる他はなくなる。

 

  

 

青春とは、心の若さである。 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

青春とは、心の若さである。 (角川文庫―角川文庫ソフィア)

 

 


要約 「青春とは、心の若さである」 

 

YOUTH

   Youth is not a time of life-it is a state of mind; it is a temper of the will,a quality of imagination, a vigor of the emotions, a predominance of courage over timidity, of the appetite for adventure over love ease.

 

   No body grows only by merely living a number of years; peoples grow old only by deserting their ideals. Years wrinkle the skin, but to give up enthusiasm wrinkles the soul. Worry, doubt ,self-distrust, fear and despair-these are the long ,long years that bow the head and turn the growing spirit back to dust.

 

   Whether seventy or sixteen, there is in every being's heart the love of wonder, the sweet amazement at the stars and the starlike things and thoughts, the undoubted challenge of events, the unfailling childlike appetite for what next, and the joy and the game of life.

 

you are yang as your faith, as old as doubt ;

as young as your self-confidence, as old as your fear;

as young as your hope, as old as your despair.

 

   So long as your heart receives messages of beauty, cheer, courage, grandeur and power from the earth, from man and from the Infinite so long as your young.

  When the wires are all down and all the central place of your heart is covered with the snows of pessimism and the ice of cynicism, then you are grown old indeed and may God have mercy on your soul.

 

 

 

★サミュエル・ウルマン(Samuel Ullman, 1840年4月13日 - 1924年3月21日)は、アメリカの実業家・詩人・人道主義者。彼の名は詩 "Youth"(日本では「青春」あるいは「青春の詩」と訳される)でよく知られている。

 

生涯

1840年、ドイツ・ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン公国 (Hohenzollern-Hechingen) のヘヒンゲン(英語版)(現在はバーデン=ヴュルテンベルク州テュービンゲン行政管区ツォレルンアルプ郡に属する町)において、ユダヤ人の両親のもと生まれる。ウルマンの一家は1851年にアメリカに移住し、ミシシッピ州ポートギブソン (Port Gibson, Mississippi) に定住した。

 

1861年南北戦争が勃発すると、ウルマンはアメリカ連合国陸軍(南軍)に兵士として従軍するが翌年に除隊。

1865年にミシシッピ州ナチェズに移り住んだ。

 

ウルマンはここで商売をはじめ、1867年にエマ・メイヤー (Emma Mayer) と結婚した。夫妻の間には8人の子が生まれ、6人が成長した。また、ウルマンは市会議員を務め、また地元の教育委員会の委員となった。

 

1884年、ウルマンの一家アラバマ州バーミングハムに移住。自治体として設立されて間もないこの若い町で、ウルマンは金物の小売店をはじめ、続いて不動産業も兼営した。ナチェズで商業や教育に指導的な役割を果たしたことは知られており、1884年にはバーミングハム市教育委員会の委員に選出、1893年には委員長となった。

 

18年間の教育委員在任中、彼は黒人教育に関心を寄せ、黒人にも白人と同じ教育を行うことが教育的にもプラスになると主張した。このほか、病院の設立など、ウルマンは多くの地域社会活動に携わった。

 

市のユダヤ教改革派のエマヌエル教会において、信徒団の長を務め、1890年にはレイラビ(lay rabbi, 精神指導者[4]、在俗のラビ)になっている。ナチェズやバーミンガムにおける宗教的・教育的・社会的活動は、しばしば議論を招いたものの、敬意を払われる足跡を残した。

 

ウルマンは引退後、多くの時間を趣味(手紙やエッセイや詩の執筆)に注いだ。彼の詩や詩的なエッセイは、愛、自然、信仰、あわただしいライフスタイルの友人、そして「若く」生きることといった、さまざまな題材を扱っている。

 

1920年4月、80歳の誕生日を記念して、それまでに書き溜められた詩を集め From the Summit of Years, Four Score『80年の歳月の頂から』が家族の手によって自費出版される(出版年については1922年とも)。1924年アラバマ州バーミングハムにおいて死去。

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